「文化」「慣習」だからすべてが尊いというわけではない
伊藤氏の民事勝訴について感じたことをダラダラと
Kinoさんのエッセイを読んで、初めて、伊藤詩織氏の件にとりあえず一つの結末が出たことを知りました。
伊藤詩織氏のことを記憶している人も少なくないと思いますが、元TBS記者に対して「合意なき性行為」(要するにレイプ)を受けたとして裁判を起こしていた件です。
事件が起こった当時、彼女はアメリカでジャーナリズムを学んでおり、この件の被害者として日本で事件を公にすることを希望していたと解釈しています。しかし、それは日本国内ではかなわず、イギリスBBCによってやっとドキュメンタリーとして放映されました。
日本に真のジャーナリズムは存在しない、それを証明する良い事例です。
性犯罪において、日本で刑事裁判を起こしても勝訴するのは非常に困難だといわれています。その一つの理由が法律に性行為に対する「同意」に関する表記が欠けていることが指摘されています。この伊藤氏の件があってのちほどなく、関連法律が100年ぶりに改訂されましたがそこにも「合意」に関する記述は認められていません。
今回は、民事という形であれ、訴えを起こした伊藤氏の勝訴に終わったことは、大きな前進だと思います(刑事に関してはすでに不起訴が決まっていました)。
日本は先進国と分類されながらも、その中で圧倒的に男性中心の世界です。インターネット上の日本語世界も男性主義です。それを少しでも変えたいと思うなら、内側にいる女性が声を挙げなくてはなりません。
だから、この勝訴が、少しでも日本にいる女性の意識を変えることのきっかけになればいいと、心からそう思います。
世の中に完璧な国はありません。西洋の国は、アジアに比べると比較的性差別が少ないように感じられますが、あくまでも比較の問題です。ここにだって、性差別主義者はいますし、人種差別者もいます。それでも、日本に比べると女性の権利が認めらていることは確かです。それはなぜかというと、ここにいる女性たちが自ら声をあげ、女性の人権について戦ってきた歴史があるからです。
今でもアフリカやアジアの一部で行われている女性性器切除の風習などもそうですが、内側にいる当事者が声を挙げなくては何も変わりません。それがいかに野蛮な行為だと、外側にいる人間にはそう見えていても、アウトサイダーから「それは間違ってるからやめなさい」と訴えてもなかなか変わらないのです。むしろ「私たちの文化を馬鹿にしている」と反感をかいかねません。
日本の女性問題、性差別に関しては、内側にいて虐げられている私たちが声を挙げなくては何も変えられないのです。
「三歩下がって夫に付き従う」控えめな日本女性の姿は美徳だと感じている人もいるでしょう。しかし、それは「女性の声を封じ込める」トリックとしての「文化」や「慣習」でしかありません。
たしかに、「文化」「慣習」は尊いものですが、そのために一部の人たちが傷ついたり虐げられたり、我慢や苦痛を強いられなくてはならないような「文化」なら、疑問を投げかけるべきだと思いませんか。
この世界には、同性愛者だからという理由だけで命を危険にさらされる国もあります。それも「その国の文化だから」といって、黙って見過ごしてよいものでしょうか。
日本では人権教育が十分ではないとよく言われますが、それは、政治や立法分野を女性蔑視にまみれている男性が牛耳っているためです。人権教育なんて進むわけがありません。
立法分野においては女性議員もいるじゃないか、という意見もあるでしょう。しかしながら、たとえば、伊藤詩織氏のBBCドキュメンタリー 「Japan’s Secret Shame(日本の秘められた恥)」に登場するある女性議員(いろんな意味で日本でも有名な方です)の姿は、日本の女性議員のレベルの低さを世界に見せつけたことになりました。女性議員が、日本の政治世界においていかに「お飾り」であるかを世界に知らしめた結果になったのです。
女性が権利を持つということ、自由と自立を確立し、人生を選択するということは、自分の選択に責任を持つということでもあります。中には、「男性のお世話になって生きていく方が楽ちん」と考える女性もいるでしょう。
私は海外で暮らすようになって15年以上になりますが、日本的な女性観念から解き放たれた今感じることは、「どんなに責任が大きくなろうとも、自分で選択できる人生の方がいい」ということです。
西洋の女性たちは、女性の権利を確かなものにするために、いかに虐げられてきたかをずっと訴え続けてきました。そして、今でも現在進行形で訴え続けています。どこにも完璧な世界はありません。でも、声をあげなくては何も変わらないのです。
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