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Abstract

</p><p id="9a78">「棚田ねぇ…。田んぼなら日本の田舎にもたくさんあるから…」とあまり気が乗らない私。でも、規模が大きい中国の棚田にまったく興味がないわけではなかった。</p><p id="df1d">迷う口調の私に、彼が付け加えていった。</p><p id="4cb1">「ただ、日帰りではちょっと難しいかもしれないって、ガイドブックに書いてあった。向こうで宿泊できるところもあるらしいけど、ドミトリーはないみたいなんだ」</p><p id="aa21">申し訳なさそうに言う彼の言葉に、策略的なものを感じた。</p><p id="6f08">「いつ行く予定?」</p><p id="5197">「三日後には上海に飛ばなくちゃいけないから、一泊するとしたら明日かな。天気が良かったらの話だけど」</p><p id="3a6b">「少し、考える」</p><p id="f9a3">心のどこかで「明日雨が降ればいいのに」と思った。</p><p id="1f48">彼といっしょにいるのが楽しくなってきているのは認めるが、それ以上のことは望んでいなかった。それなら、彼には申し訳ないが、いっそのこと嵐が来てほしいと願った。</p><p id="1bc5">旅先で出会った人と、軽い気持ちで遊ぶことはしないと決めていた。</p><p id="0a1e">正直に告白すると、以前はそういう経験もないわけではない。でもあるとき、病気に感染したんじゃないかと不安になることがあって、それ以降、衝動的な行動はしないと決心した。</p><p id="4148">それにこの年になって、彼女がいる人との不毛な恋愛をするほどヒマじゃない。</p><p id="5d36">午後、散歩から戻ると、ドミトリーの床に私たちのものではない薄汚れた大きな男物のブーツが置かれていた。だれか他の旅行客がチェックインしたらしい。</p><p id="99e1">「Maybe, Spanish.(多分、スペイン人だ)」</p><p id="5aa7">ベッドの上に無造作に置かれていた本を見て、彼がそう言った。私は、ちょっとがっかりした気持ちを彼に知られたくなくて、顔をうつむき加減のままでいた。</p><p id="999a">観光地、桂林の街にはレストランも多い。ただ、市内は広く、食事できる店が散らばっているので、歩いて良い店を探そうとするとけっこうな距離を歩かされることになる。</p><p id="2898">私たちは、散歩の途中でたまたま見つけた火鍋屋で夕食をとることにした。</p><p id="e868">中国式の鍋は「火鍋(フォグゥオ)」という。地方や店によってそのスタイルはさまざまで、私たちが桂林で見つけたその店は比較的浅い鍋(イメージ的には日本のすき焼き鍋に近い)で具材を煮るタイプの火鍋だった。</p><p id="e002">火鍋は注文の仕方がシンプルで、私にとっても楽ちんだった。その店は満席ではなかったものの、私たち以外にも、飲みながら鍋をつつき大声で語り合う中国人客が入っていて、にぎわっていた。</p><p id="e44f">西洋人男性とアジア人女性という組み合わせの私たちは、店内でも目立っていた。店の女の子たちはみな愛想がよかったが、やたらと視線を感じるのは、ちょっとくすぐったかった。</p><p id="34ff">それでも決して不快な視線ではなく、彼女たちはみなフレンドリーだった。味も美味しかったので、最終的には桂林滞在中三日続けてここで夕食をとることになる。</p><p id="1321">何よりも二人ともよく飲むので、ビールを追加注文するたびに、若いウェイトレスの子たちが同僚同志で顔を見合わせてクスクス笑っていた。テーブルの上にあっという間にビールの空きビンが乱立するのが、彼女たちにはかっこうのおしゃべりのネタになっていたようだ。</p><p id="a021">空き瓶をいつまでもテーブルの上に置いたまま片付けないのは、中国ではよくある習慣だった。</p><p id="6960">日本人的習性で、彼のグラスが空になる前に、私がビールを注いであげると、彼は</p><p id="a88c">「I feel like a king!(王様になったみたいだ)」といって喜んだ。</p><p id="9976">火鍋でお腹がいっぱいになった後は、ゲストハウスの屋上テラスでビールを飲むことにした。屋上にでると、気持ちよい風が吹いていたが、運悪く、別の中国人男性旅行者が携帯電話を片手に大声で話をしていて、かなり騒々しかった。</p><p id="87ce">このゲストハウスは三階建てで、エスカレーターは無い。ビールは一階の受付でしか販売されていないので、数本買い込んで屋上に上がれば、と提案したが、彼は冷たいビールが飲みたいからと、飲み終わるたびに毎回階下までビールを買いに行ってくれた。その都度、屋上に一人取り残される私は、明日のことを考えずにはいられなかった。</p><p id="f089">私はまだ明日の龍勝行きをどうするか決めかねていた。もし私が「行かない」と言えば、彼は一人で行ってしまうだろう。一人残る私は、さみしいと感じないだろうか。でも、龍勝で同じ部屋に泊まったら、何も起こらないはずがない。龍勝のゲストハウスで二部屋に別々に泊まろうと提案すべきだろうか。しかし、うまい具合に、同じゲストハウスに二部屋空きがあるだろうか。</p><p id="03f5">こんな不安定な気持ちのままで飲み過ぎるのは良くないと思い、早々に切り上げて部屋に戻ることにした。</p><p id="c084">ドミトリーに戻ると、ドレッドヘアのスペイン人男性がいて「Hello」と声をかけてきた。あの、薄汚れた、バカでかいブーツの持ち主だ。</p><p id="8ff7">私は憎々しげにその男性を眺めてみた。この旅行者がやってこなかったら、今夜どんなストーリーになっていたのだろう、と、考えても仕方がないことに想像をめぐらした。</p><p id="6e1d">彼に向ってなまりの強い英語で無邪気におしゃべりしているスペイン男性を横目に、私はさっさと自分のベッドにもぐりこんだ。</p><p id="e36c">こんな気持ちのままで眠れるのかどうか分からなかったが、意外にもすぐに眠りに落ちた。</p><p id="daaf">目覚めると、すでに外が明るくなっていた。上段のベットにいた私は、すぐ横にあった窓のカーテンを開いて空を見上げた。どう見ても嵐が来る気配はなく、これで、天気を理由に龍勝行きをあきらめる理屈は通らなくなった。</p><p id="544a">私はまだ彼に「行く」とも「行かない」とも伝えていなかった。楽観的な彼のことだ、きっと私がいっしょに行くものだと思って予定しているだろう。</p><p id="c792">行くのか、行かないのか、未だに決めかねている自分に、イライラした。こんなにも気持ちがかき乱されていることに少しパニックになり、同時にこんなざわざわした気分にさせる彼をうらめしくも思えてきた。</p><p id="0914">もし私が「行かない」と言ったら、彼も龍勝行きをあきらめるだろうか。でも、彼は私のようにいつでも中国に遊びに来れるわけではない。時間とお金をかけて、遠路はるばるやってきた彼の計画を変更させてよいものか。</p><p id="ba74">そもそも私は彼に「いっしょに行きたくない」と告げるだけの勇気があるのか。それとも、大人しく彼の提案通り龍勝に行く方が、自分にとってもハッピーなのでは…?</p><p id="94cf">考えがまとまらない自分自身にいたたまれなくなって、そっと部屋を抜け出した。とにかくその場から逃げ出したかった。冷静さを取り戻さなくてはいけないと思った。</p><p id="c0f7">レセプションに一人いた女の子の目の前を通り抜けて、ひとり、早朝の桂

Options

林の街へと歩き出した。</p><p id="5682">中国の朝は早い。ひんやりした朝の空気の中、太極拳をしたり温かい湯気の上がる小店で朝食をとる人など、すでにたくさんの市民が街に出ていた。</p><p id="1382">ごく普通の日常風景の中それぞれの習慣で朝を迎えている彼らを見ていると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。</p><p id="e9bb">―――旅行先で出会った男に振り回されるなんて、私の主義じゃない。棚田に興味がないなら、「行きたくない」とはっきり断ろう、と思った。私は自分らしい旅をしよう。</p><p id="514c">ゲストハウスに戻ると、受付の女の子が中国語で話しかけてきた。</p><p id="2000">「哎,小姐,你的男朋友刚出去找你了!(ちょっと、あなたの彼氏、今あなたを探しに出てったわよ)」</p><p id="60e9">「他不是我的男朋友。(彼、私のボーイフレンドじゃないわ)」</p><p id="af56">「不是吗? 为社么呀? 你不喜欢他啊?(違うの? なんで。彼のこと、好きじゃないの?)」</p><p id="dc45">まったくもって、余計なお世話だ。</p><p id="317f">その女の子は、隣に立っていた先輩っぽい同僚に肘でつつかれ、たしなめられた。二人はそのあともキャッキャッと中国語で何か話していたが、どうやら私たちは、暇を持て余す彼女たちに格好のゴシップネタを提供していたらしい。</p><p id="ef23">私は受付横の共有スペースで、ガラス窓のすぐ隣にあった椅子に腰かけた。ここからなら外からよく見える。ほどなく、彼が大股で戻ってくるのが見えた。</p><p id="bd6a">屋内に入ると彼はすぐ私を見つけて、</p><p id="466a">「朝起きたら、どこにもいなくて心配した」</p><p id="a285">といった。怒りでも悲しみでもなく、彼の表情には心配と安堵しかなかった。私は「おはよう」も何の挨拶もそっちのけに言った。</p><p id="7eea">「I’m sorry, but I cannot go to LongSheng.(ごめん、やっぱり龍勝には行けない)」</p><p id="22d0">彼の顔にみるみる失望感が広がった。</p><p id="12dd">「あなたと一緒にいるのは楽しいけど、自分が行きたいと思わないところに行くのは私のスタイルじゃない。だから、行きたくない」</p><p id="0bed">と、つたない英語で説明した。</p><p id="f022">「それに、彼女がいるあなたと同じ部屋に泊まるのも、良くないと思う。それも私のポリシーに反することだから」</p><p id="245e">彼は静かに「わかった」といった。</p><p id="4747">私は彼がひとりで龍勝に行くことを決心したのだと思った。これで、今日から別行動になるが、仕方ない。私が自分で決めたことだ。じんわりと失望感が広がるのを感じた。</p><p id="f453">「It was my expectation.(僕の勝手な思い込みだった)」</p><p id="e70f">彼は「Sorry」と謝ってから、「君に変なプレッシャーをかけてしまったことをすまないと思っている」と言った。</p><p id="e4fb">「誰にでも、それぞれの旅のスタイルがある。君の言うことは、すべて理解できる。僕は、君のことも君の考え方も尊重する」</p><p id="637c">彼がきちんと理解してくれたことをうれしく思ったものの、これで今日から一人旅に戻ってしまうことに、少しがっかりし始めていた。</p><p id="26c2">「―――じゃぁ、そろそろ出かけた方がいいんじゃない。龍勝に行くなら」</p><p id="eeb6">私がそう促すと、向かい側に座って私の話を聞いていた彼は、少し背伸びをしてガラス窓に視線を流すと、こうつぶやいた。</p><p id="5a9b">「うん…。どうしようかな、なんだか、I am feeling lazy, now…(面倒くさくなってきた)」</p><p id="1bde">「I am feeling lazy」という英語の意味がよく分からなくて中途半端な表情をしていると、彼がこう切り出した。</p><p id="6734">「By the way(ところで)、龍勝といっても広いんだ。</p><p id="9f2c">ガイドブックを読むと、棚田のスポットはいくつかあって、一番近いポイントならそれほど遠くないはずなんだ。距離的には、十分日帰りでも行ける範囲だと思うんだよね。</p><p id="1863">ただ、僕は中国語が話せないし、詳しい行き方は分からないんだけど、君、ちょっと受付の女の子に中国語で尋ねてみてくれない?」</p><p id="f1a2">予想していなかった展開だったけど、彼に対して申し訳なさを感じていた私は、そのくらいなら、と通訳をしてあげることにした。</p><p id="3285">さっきから受付に立って私たちの様子をうかがっていた女の子二人は、私たちが近づくとウフフと笑って、興味津々そうに目をキラキラさせた。</p><p id="530f">ここから最寄りの棚田の場所と、日帰りでも行けるかどうか尋ねると、二人は声をそろえて、</p><p id="a91b">「可以!(行けますよ)」</p><p id="4263">ローカルのバスで「和平」という場所に行き、そこから山を登るバスに乗り換えれば、棚田のスポットに行けるという。彼の表情がぱっと明るくなり、私たちの会話に食いついてきた。</p><p id="28e9">彼が女の子の一人に頼んで、旅行中いつも持ち歩いているメモ帳に中国語で「和平」と書いてもらった。</p><p id="e5ad">しかし、どうやらかなりローカル色の強い交通手段になりそうで、中国語ができないとちょっと厳しいのでは、と彼女たちが言った。</p><p id="b717">「彼は、漢字も読めないんでしょ。だから西洋人は普通、向こうで宿泊する人が多いのよ」</p><p id="f570">―――なんとなく、うまく彼の策略にハマったような気がしないでもなかったが、日帰りなら、ということで棚田まで一緒に行くことにした。</p><p id="f859">その日はすでに正午に近くなってしまったので、翌日の朝、出発することにした。</p><p id="ccbd"><i>続きはアマゾンKindleで:</i></p><div id="ebae" class="link-block"> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07RN28B85"> <div> <div> <h2>恋愛の彼方</h2> <div><h3>12,400km 時差14時間の超遠距離恋愛、マイナス27度からのラブコール。上海,香港,バンコク,コ&...</h3></div> <div><p>www.amazon.co.jp</p></div> </div> <div> <div style="background-image: url(https://miro.readmedium.com/v2/resize:fit:320/0*5vX8i58xc7kA2fZB)"></div> </div> </div> </a> </div></article></body>

恋愛の彼方―第二章 桂林

12,400㎞、時差13時間の超遠距離恋愛私小説

Photo by ObeyGravity, on Pixabay

次の日、早めの朝食を済ませてゲストハウスに戻ると、彼が受付で私を待っていた。

「桂林行きのミニバスが二十分後に出るらしい。いっしょに行く?」

「二十分? OK、すぐ用意する」

小さなリュックに身の回りのものを詰め込んで階下に降りると、大きなバックパックを背負った彼がすでに立っていた。レセプションの女の子に「ありがとう」と言って、急ぎ足でバス停に向かった。

バス乗り場にはすでにミニバスが到着していて、「桂林、桂林!」と客引きが始まっていた。私たちが乗り込むと、ほどなくバスは発車した。バスの中で桂林に着いたらどうしたいか、と聞かれた。

実はこの旅行中、行ってみたいと思っている場所がもう一つあった。湖南省鳳凰(フェニックス)だった。

桂林のバスターミナルでもし鳳凰行きのバスがあったらそれに乗るつもりだといった。彼は、龍勝の棚田を見に行きたいといった。棚田は特に西洋人が好む観光スポットだが、田んぼを見慣れている日本人にとって、格別わざわざ行ってみたい場所でもない。

とにかく、鳳凰行きのバスがあれば、私たちは別行動になりそうだ。安心する気持ちの陰に、少し残念だと思う自分がチラついていた。

三十分程度バスに揺られて、桂林のバスターミナルに着いた。

桂林は人口約四百七十万人の都市、漓江下りで有名な観光名所。バスターミナルも比較的大きく、乗客と客引きとであふれていた。

バスから降りて「じゃあね」と別れるのかと思ったが、「鳳凰行きのバスがあるかどうか、聞いてきたら。僕待ってるから」と促され、一人チケット売り場の方へ向かってみた。

人であふれるチケット売り場でようやっと空いている窓口を見つけ、聞いてみた。

桂林―鳳凰間の直通バスはないと言われた。乗り換えれば行けないこともなかったが、数日以内に香港に戻らなくてはいけない予定で、あまり無理な行程は組みたくなかった。そもそも中国のバスは予定通り運行されるとは限らない。

路線に詳しい客引きにも聞いてみたが、鳳凰行きは一般的ではないらしく、首を振られるだけだった。

「直行バスはないみたい。休暇も残り少ないから、鳳凰行きは諦めることにする」

と、戻って彼にそう告げると、彼はこういったらしい。

「I feel really sorry about that.(本当に残念だったね)」

私はとっさに彼が何を言ったのか理解できなかった。数秒してはじめて「Sorry(残念に思う)」と言われたことに気づいた。

彼の英語がよく分からなかったのは、口先とは裏腹に彼の顔が晴れやかで、とても残念がっているようには見えなかったからだった。ということにあとで気づいた。

彼は、残念がるよりもむしろ意気揚々と、今にもスキップを始めそうな雰囲気でバスターミナルの出口に向かって歩いていく。そんな彼の後ろ姿を見ながら、「嘘のつけない人だ」と思った。

桂林滞在を決めた私たちは宿探しを始めた。桂林には外国人が泊まれる施設も多い。興坪(シンピン)で泊ったゲストハウスの姉妹ゲストハウスがあると聞いていたので、そこに行ってみることにした。

旅行の繁盛期ではなかったので、部屋はガラ空きのようだった。そのゲストハウスにもドミトリーがあった。

宿のスタッフにどの部屋にするか聞かれて、彼はシングルルームに泊まりたがった。彼は部屋をシェアしないかといったが、私はドミトリーに泊まるつもりだったので断った。

「ドミトリーのベッドは狭くて寝心地が良くない」とブツブツいう彼を無視して、レセプションの女の子にベッドの空きはあるかと尋ねた。彼女は、

「大部屋(男女混合ドミトリー)に空きベットがあります」

といった。

「じゃあ、私はそのドミトリーに泊まります。上段のベッドで」

私がそういうと、

「やっぱり、僕もドミトリーにする」と彼が言い出した。「同じドミトリー、空いてる?」

中国のゲストハウスやユースホステルのドミトリーは、木製かパイプで組まれた二段ベッドの部屋が一般的だ。ここも木製の二段ベッドがコの字型に並べられていて、ベッドの数は一室で九台あったと思う。比較的大きい部屋だ。

九台、と奇数なのは、なぜか一台だけ独立したシングルベッドが置かれていたからだ。ちゃんとスプリングが入った、通常のベッドだった。それを指さして、

「あのベッドなら、狭苦しくないんじゃない。あなた、ラッキーね」といってあげた。

閑散期のためか、単にそのゲストハウスの人気がなかったからなのか、ドミトリーはガラガラだった。―――つまり、男女混合ドミトリーといえども、私たち二人以外に宿泊客はいなかったのだ。

―――これは…、やばい。

「僕たち、二人だけだね」

と、彼がつぶやくのが聞こえた。

「…そうね、まだ朝早いしね。午後から他の旅行客が来るかも」

ドミトリー(大部屋)であっても、二人きりになってしまっては意味がない。でも、多分、他にも旅行者がやってくるだろうと楽観していた。

ちょうどお昼時に近かったので、二人で昼食をとり、その後桂林の街を散歩した。中国の都市はだいたいどこも大きな公園がある。私は中国の広い公園を散歩しながら、現地の人が太極拳をしたり、中国茶を飲んだり、将棋をさしたりするのを見るのが好きだった。

さすがに観光地なだけあって、他の中国都市に比較しても桂林の街並みは清潔で手入れが行き届いているように見えた。公園の遊歩道を並んで歩きながら、彼が提案してきた。

「龍勝(ロンシャン)にいっしょに行かないか? 壮大な棚田が広がっていて、すごいきれいらしいよ」

「棚田ねぇ…。田んぼなら日本の田舎にもたくさんあるから…」とあまり気が乗らない私。でも、規模が大きい中国の棚田にまったく興味がないわけではなかった。

迷う口調の私に、彼が付け加えていった。

「ただ、日帰りではちょっと難しいかもしれないって、ガイドブックに書いてあった。向こうで宿泊できるところもあるらしいけど、ドミトリーはないみたいなんだ」

申し訳なさそうに言う彼の言葉に、策略的なものを感じた。

「いつ行く予定?」

「三日後には上海に飛ばなくちゃいけないから、一泊するとしたら明日かな。天気が良かったらの話だけど」

「少し、考える」

心のどこかで「明日雨が降ればいいのに」と思った。

彼といっしょにいるのが楽しくなってきているのは認めるが、それ以上のことは望んでいなかった。それなら、彼には申し訳ないが、いっそのこと嵐が来てほしいと願った。

旅先で出会った人と、軽い気持ちで遊ぶことはしないと決めていた。

正直に告白すると、以前はそういう経験もないわけではない。でもあるとき、病気に感染したんじゃないかと不安になることがあって、それ以降、衝動的な行動はしないと決心した。

それにこの年になって、彼女がいる人との不毛な恋愛をするほどヒマじゃない。

午後、散歩から戻ると、ドミトリーの床に私たちのものではない薄汚れた大きな男物のブーツが置かれていた。だれか他の旅行客がチェックインしたらしい。

「Maybe, Spanish.(多分、スペイン人だ)」

ベッドの上に無造作に置かれていた本を見て、彼がそう言った。私は、ちょっとがっかりした気持ちを彼に知られたくなくて、顔をうつむき加減のままでいた。

観光地、桂林の街にはレストランも多い。ただ、市内は広く、食事できる店が散らばっているので、歩いて良い店を探そうとするとけっこうな距離を歩かされることになる。

私たちは、散歩の途中でたまたま見つけた火鍋屋で夕食をとることにした。

中国式の鍋は「火鍋(フォグゥオ)」という。地方や店によってそのスタイルはさまざまで、私たちが桂林で見つけたその店は比較的浅い鍋(イメージ的には日本のすき焼き鍋に近い)で具材を煮るタイプの火鍋だった。

火鍋は注文の仕方がシンプルで、私にとっても楽ちんだった。その店は満席ではなかったものの、私たち以外にも、飲みながら鍋をつつき大声で語り合う中国人客が入っていて、にぎわっていた。

西洋人男性とアジア人女性という組み合わせの私たちは、店内でも目立っていた。店の女の子たちはみな愛想がよかったが、やたらと視線を感じるのは、ちょっとくすぐったかった。

それでも決して不快な視線ではなく、彼女たちはみなフレンドリーだった。味も美味しかったので、最終的には桂林滞在中三日続けてここで夕食をとることになる。

何よりも二人ともよく飲むので、ビールを追加注文するたびに、若いウェイトレスの子たちが同僚同志で顔を見合わせてクスクス笑っていた。テーブルの上にあっという間にビールの空きビンが乱立するのが、彼女たちにはかっこうのおしゃべりのネタになっていたようだ。

空き瓶をいつまでもテーブルの上に置いたまま片付けないのは、中国ではよくある習慣だった。

日本人的習性で、彼のグラスが空になる前に、私がビールを注いであげると、彼は

「I feel like a king!(王様になったみたいだ)」といって喜んだ。

火鍋でお腹がいっぱいになった後は、ゲストハウスの屋上テラスでビールを飲むことにした。屋上にでると、気持ちよい風が吹いていたが、運悪く、別の中国人男性旅行者が携帯電話を片手に大声で話をしていて、かなり騒々しかった。

このゲストハウスは三階建てで、エスカレーターは無い。ビールは一階の受付でしか販売されていないので、数本買い込んで屋上に上がれば、と提案したが、彼は冷たいビールが飲みたいからと、飲み終わるたびに毎回階下までビールを買いに行ってくれた。その都度、屋上に一人取り残される私は、明日のことを考えずにはいられなかった。

私はまだ明日の龍勝行きをどうするか決めかねていた。もし私が「行かない」と言えば、彼は一人で行ってしまうだろう。一人残る私は、さみしいと感じないだろうか。でも、龍勝で同じ部屋に泊まったら、何も起こらないはずがない。龍勝のゲストハウスで二部屋に別々に泊まろうと提案すべきだろうか。しかし、うまい具合に、同じゲストハウスに二部屋空きがあるだろうか。

こんな不安定な気持ちのままで飲み過ぎるのは良くないと思い、早々に切り上げて部屋に戻ることにした。

ドミトリーに戻ると、ドレッドヘアのスペイン人男性がいて「Hello」と声をかけてきた。あの、薄汚れた、バカでかいブーツの持ち主だ。

私は憎々しげにその男性を眺めてみた。この旅行者がやってこなかったら、今夜どんなストーリーになっていたのだろう、と、考えても仕方がないことに想像をめぐらした。

彼に向ってなまりの強い英語で無邪気におしゃべりしているスペイン男性を横目に、私はさっさと自分のベッドにもぐりこんだ。

こんな気持ちのままで眠れるのかどうか分からなかったが、意外にもすぐに眠りに落ちた。

目覚めると、すでに外が明るくなっていた。上段のベットにいた私は、すぐ横にあった窓のカーテンを開いて空を見上げた。どう見ても嵐が来る気配はなく、これで、天気を理由に龍勝行きをあきらめる理屈は通らなくなった。

私はまだ彼に「行く」とも「行かない」とも伝えていなかった。楽観的な彼のことだ、きっと私がいっしょに行くものだと思って予定しているだろう。

行くのか、行かないのか、未だに決めかねている自分に、イライラした。こんなにも気持ちがかき乱されていることに少しパニックになり、同時にこんなざわざわした気分にさせる彼をうらめしくも思えてきた。

もし私が「行かない」と言ったら、彼も龍勝行きをあきらめるだろうか。でも、彼は私のようにいつでも中国に遊びに来れるわけではない。時間とお金をかけて、遠路はるばるやってきた彼の計画を変更させてよいものか。

そもそも私は彼に「いっしょに行きたくない」と告げるだけの勇気があるのか。それとも、大人しく彼の提案通り龍勝に行く方が、自分にとってもハッピーなのでは…?

考えがまとまらない自分自身にいたたまれなくなって、そっと部屋を抜け出した。とにかくその場から逃げ出したかった。冷静さを取り戻さなくてはいけないと思った。

レセプションに一人いた女の子の目の前を通り抜けて、ひとり、早朝の桂林の街へと歩き出した。

中国の朝は早い。ひんやりした朝の空気の中、太極拳をしたり温かい湯気の上がる小店で朝食をとる人など、すでにたくさんの市民が街に出ていた。

ごく普通の日常風景の中それぞれの習慣で朝を迎えている彼らを見ていると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。

―――旅行先で出会った男に振り回されるなんて、私の主義じゃない。棚田に興味がないなら、「行きたくない」とはっきり断ろう、と思った。私は自分らしい旅をしよう。

ゲストハウスに戻ると、受付の女の子が中国語で話しかけてきた。

「哎,小姐,你的男朋友刚出去找你了!(ちょっと、あなたの彼氏、今あなたを探しに出てったわよ)」

「他不是我的男朋友。(彼、私のボーイフレンドじゃないわ)」

「不是吗? 为社么呀? 你不喜欢他啊?(違うの? なんで。彼のこと、好きじゃないの?)」

まったくもって、余計なお世話だ。

その女の子は、隣に立っていた先輩っぽい同僚に肘でつつかれ、たしなめられた。二人はそのあともキャッキャッと中国語で何か話していたが、どうやら私たちは、暇を持て余す彼女たちに格好のゴシップネタを提供していたらしい。

私は受付横の共有スペースで、ガラス窓のすぐ隣にあった椅子に腰かけた。ここからなら外からよく見える。ほどなく、彼が大股で戻ってくるのが見えた。

屋内に入ると彼はすぐ私を見つけて、

「朝起きたら、どこにもいなくて心配した」

といった。怒りでも悲しみでもなく、彼の表情には心配と安堵しかなかった。私は「おはよう」も何の挨拶もそっちのけに言った。

「I’m sorry, but I cannot go to LongSheng.(ごめん、やっぱり龍勝には行けない)」

彼の顔にみるみる失望感が広がった。

「あなたと一緒にいるのは楽しいけど、自分が行きたいと思わないところに行くのは私のスタイルじゃない。だから、行きたくない」

と、つたない英語で説明した。

「それに、彼女がいるあなたと同じ部屋に泊まるのも、良くないと思う。それも私のポリシーに反することだから」

彼は静かに「わかった」といった。

私は彼がひとりで龍勝に行くことを決心したのだと思った。これで、今日から別行動になるが、仕方ない。私が自分で決めたことだ。じんわりと失望感が広がるのを感じた。

「It was my expectation.(僕の勝手な思い込みだった)」

彼は「Sorry」と謝ってから、「君に変なプレッシャーをかけてしまったことをすまないと思っている」と言った。

「誰にでも、それぞれの旅のスタイルがある。君の言うことは、すべて理解できる。僕は、君のことも君の考え方も尊重する」

彼がきちんと理解してくれたことをうれしく思ったものの、これで今日から一人旅に戻ってしまうことに、少しがっかりし始めていた。

「―――じゃぁ、そろそろ出かけた方がいいんじゃない。龍勝に行くなら」

私がそう促すと、向かい側に座って私の話を聞いていた彼は、少し背伸びをしてガラス窓に視線を流すと、こうつぶやいた。

「うん…。どうしようかな、なんだか、I am feeling lazy, now…(面倒くさくなってきた)」

「I am feeling lazy」という英語の意味がよく分からなくて中途半端な表情をしていると、彼がこう切り出した。

「By the way(ところで)、龍勝といっても広いんだ。

ガイドブックを読むと、棚田のスポットはいくつかあって、一番近いポイントならそれほど遠くないはずなんだ。距離的には、十分日帰りでも行ける範囲だと思うんだよね。

ただ、僕は中国語が話せないし、詳しい行き方は分からないんだけど、君、ちょっと受付の女の子に中国語で尋ねてみてくれない?」

予想していなかった展開だったけど、彼に対して申し訳なさを感じていた私は、そのくらいなら、と通訳をしてあげることにした。

さっきから受付に立って私たちの様子をうかがっていた女の子二人は、私たちが近づくとウフフと笑って、興味津々そうに目をキラキラさせた。

ここから最寄りの棚田の場所と、日帰りでも行けるかどうか尋ねると、二人は声をそろえて、

「可以!(行けますよ)」

ローカルのバスで「和平」という場所に行き、そこから山を登るバスに乗り換えれば、棚田のスポットに行けるという。彼の表情がぱっと明るくなり、私たちの会話に食いついてきた。

彼が女の子の一人に頼んで、旅行中いつも持ち歩いているメモ帳に中国語で「和平」と書いてもらった。

しかし、どうやらかなりローカル色の強い交通手段になりそうで、中国語ができないとちょっと厳しいのでは、と彼女たちが言った。

「彼は、漢字も読めないんでしょ。だから西洋人は普通、向こうで宿泊する人が多いのよ」

―――なんとなく、うまく彼の策略にハマったような気がしないでもなかったが、日帰りなら、ということで棚田まで一緒に行くことにした。

その日はすでに正午に近くなってしまったので、翌日の朝、出発することにした。

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