アジアの告白 — 葉月
「ヴァージンビーチを探してる」 と、その男は言った。 ヴァージンビーチという言葉が何を意味しているのか分からなくて、一瞬反応が遅れた。「この辺には手つかずの砂浜がたくさんある。知ってるか?」 そういわれて初めて理解できた。誰にも侵略、開発されていない海辺のことをいうらしい。 「手つかずのビーチってこと?どうやって探すの?」 葉月はそう尋ねた。 「地元の人間に聞けばすぐに分かる。レンタルバイクの店員もよく知ってる」 この小さな街で唯一外国人で賑わっているゲストハウスの屋上にいた。朝食の時間だが、他の旅行客にとってはまだ早すぎるのか、人影まばらだった。葉月と彼の他にはフランス人カップルが一組、朝食ビュッフェで食事をしているだけだった。 長いテーブルにたまたま斜向かいに座っただけのその男は、そっけなく葉月にいった。 「君はここで何やってる?」 私は、ここで何をやっているのだろう。彼女は自問した。 葉月が答えられないでいると、その男はおもむろに言った。
「いっしょに来るか?」 その男、アンソニーは、ゲストハウスのすぐ向かい側にあるバイクショップで追加のヘルメットを調達してきた。葉月は彼の差し出すピンク色のそれをかぶり、不器用にモーターバイクの後ろに腰を下ろした。 彼が目指すビーチは軽自動車がやっと通れるくらいの道幅しかない。しかも急傾斜が続き、曲がりくねった山道を登って降りて、また登って降りた。大部分が舗装されていないため、他のバイクとすれ違う度に砂煙が上がる。 亜熱帯の木々に覆われた山をもう一つ超えると、やっと海らしきものが見えてきた。険しい砂利の小道をうねうね蛇行しているときは少し不安を覚えたが、海を香りを嗅いでやや気分が明るくなってきた。 彼は「ヴァージンビーチ」だといった。確かに、ただっ広い砂浜の1キロほど先に、ようやっと西洋人カップルの影が見えるだけで、他には人っ子一人いない。もちろん、ホテルやレストラン、更衣室といった施設もない。 葉月は白いシャツを脱いだ。そして、下に着ていた水着姿になると、浅瀬に向かって泳ぎだした…
四日前まで、彼女はカオサン通りの喧騒の中にいた。バンコクで安いゲストハウスが集まる、バジェット派旅行者の吹き溜まり、アジアにおける性と欲望の中心。 ミャンマーに入国する前日の深夜、彼女は見覚えのないホテルの一室で目覚めた。窓のない狭い部屋の硬いマットレスのベッドに起き上がり、一瞬どこにいるのか思い出せなかった。何も服を身に着けてない。頭が重くぼんやりして、何が起こっているのか考えようとしても、集中力が散在する。 「私は、何をしていたんだっけ?」 部屋を見回しているうちに、浴室で誰かがシャワーを浴びていることに気がついた。 その瞬間、カオサン通りのオープンバーで飲んでいたことを思い出した。そこで、見知らぬ日本人男性に声をかけられた。 デートドラッグ、という言葉が脳裏に思い浮かんだ。 彼女はあまり麻酔が効かない。婦人科で手術をしたとき、麻酔が覚めるのが速く、「もう目覚めたのかい?」と担当医を驚かせた。 浴室のシャワーの音はまだ止みそうになかった。葉月は、動きたがらない脳を意思の力で必死に回転させ、ベッドの周りに散らばっている自分の衣服を身に着けた。 ハンドバッグをひったくるように肩にかけ、部屋のドアノブに手を回して、いったん振り返り、手を止めた。ベッドの上に男のスラックスが脱ぎ捨てられていた。後ろポケットがこんもりと盛り上がっている。それに気が付いたと同時に、シャワーの音が止まった。 彼女は素早く男物のズボンから財布を引っぱり出し、一万円札の束を抜き取った。財布をベッドに投げ捨てると、勢いよくドアを開け、ただし閉めるときは音をたてないように慎重に閉じた。そして廊下に忍び出ると、一気に階段を駆け下りてホテルを飛び出した。 酔っ払いやハイになってフワフワとゾンビのように放浪する外国人らの間をすり抜け、宿泊していたゲストハウスへ向かう。 男といっしょに飲んだところまでは覚えている。自分が泊まっている安宿の住所を告げただろうか? 思い出せない。 ゲストハウスに着くと、レセプションを通らず非常階段から二階の部屋へ昇った。荷物を全部まとめてホテルを出ると、その足でタクシーに乗り、ドンムアン空港に向かう。深夜明けて朝一番のフライトがヤンゴン行きだった。
「ビーチを見つけてどうするの?」 沖から上がって、アンソニーに聞いた。 「記事にして旅行サイトに売るんだ」 「あなた、記者なの?」 「いや、本職は保険屋だった」 保険屋?保険を売っていた人が、今ここで何をやっているのだろう。 そんな疑問が思いついたものの、自分も過去のことをあれこれ詮索されたくない。葉月は黙った。 「君はここで何をしている?」 彼は同じ質問を繰り返した。 私は — — 、答えを返そうとしたとき、 「君も、何かから逃げてきたのか?」 アンソニーの、ややくすんだ青色の瞳が葉月を見つめていた。西洋人の瞳は何を考えているのか、つかみどころがなかった。 葉月がどう返事をすればいいのか迷っていると、彼は立ち上がって砂を払った。 「俺といっしょに来るか」 「どこへ?」 葉月も遅れて立ち上がる。 彼は肩をすくめていった。 「さあ、どこか。ここじゃないどこかへ」 彼は、何から逃げているのだろう。私は、私のすべてから逃げてきた。私の過去から逃げたい。私と彼は同類なのかもしれない。 でも、と葉月が言いかけると、思い透かしたかのようにアンソニーが口を開いた。 「安心しろ。俺は、女は愛せない」 再び、じっと彼の暗い眼を見た。 俺は、女は愛せない。 — — きっと、彼はそこから逃げてきたのだ。 「あなたといっしょに行く」 葉月ははっきりと口にだしてそう告げた。私たちは共犯者だ。だから、いっしょに逃亡すればいい。ここではない何処かへ、逃げ延びてその先にあるものを見に行こう。 カラッとした太陽のもとですっかり乾ききった水着の上に、身につけてきた白シャツを羽織った。葉月が再びバイクの後部に座ると、二人を乗せた中古バイクは身震いするように白煙を吐き出してから、未来へ向かって走り出した。
